廣福寺の歴史

廣福寺は承安四年(1174年)
石巻地内の観音井戸という泉を信仰と仰ぎ、天台宗として佐野家先祖が薬師如来を勧請し創建。
その後、享徳元年(1452年)に現在の石巻本町和田の広福の地に移り、
十一面観音を報じて真言宗に改宗した。

そして3年後の享徳四年(1455年)
清原家の先祖により石巻本町神ヶ谷の薬師の藪に移転する事となる。

その後廣福寺の歴史のなかで最も大きな変革として、
衰退していた時期の天正十年(1582年)に隣村である神郷の東光寺開山繁室玄茂和尚の弟子、
遠山祖芳和尚が当時最全盛の臨済宗妙心寺派に再興改宗し、
山号でもある神ヶ谷の中心部である中尾の地に移した事である。

そして慶長八年(1603年)
嵩山正宗寺の三世蒲済和尚を勧請開山と仰ぎ、正宗寺末淨陰派に属する事となる。
開基は遠山祖芳和尚であり、ここに臨済宗として石巻の神ヶ谷の地に根ざす事となった。

それから240年後の天保十五年(1844年)
当山十一世泰道智安和尚が中尾の地より現在の当地に移した。
現在の当山の御本尊、聖観世音菩薩は天保の移転時に現本堂を再建した以後の御本尊で、
天台宗での創建以来三代目の御本尊です。

翌弘化二年(1845年)
隣寺の金田の玉泉寺と提携し寺子屋を開き村民の教育にあたった。
明治五年の寺小屋の廃止後は神ヶ谷学校として明治十二年迄村民の為の教育の場となった。

明治以降の当山のあゆみとしては、明治初年頃には寺跡地の十一面地内にあった観音堂を
境内に移築し、明治二十年に山門の改築、明治三十七年には庫裏の改築を行なった。

さらに明治四十四年には神ヶ谷地区にあった秋葉堂、行者堂、庚申堂を山門の東に移築。

大正十三年には本堂の屋根を瓦への葺き替え、昭和二十四年には参道石段の改修、忠魂碑を建設。
以後、位牌堂の新築、墓地の大改修等、数々の改修等を繰り返し現在に至っている。

なお、明治二十六年には豊橋十八連隊の秋期演習の際、昭和天皇の后、香淳皇后の父君である、
同隊付少尉であった久邇宮邦彦王の宿舎となった。

当寺が宿舎に選ばれた理由として、当地域の西端の高台にあり眺望広く伽藍が整備され警備に都合が良く、なおかつ皇族縁の寺であったという事であり、宿泊の夜は境内の周りに篝火が一晩中ともり、昼間の様な明るさであったと言い伝えられている。

当石巻地区での皇族の宿泊は現在においては最初で最後である。

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